新潟県コシヒカリ物語

この地域は、日本有数の米どころです。
また、現時点では、恐らく、コシヒカリが日本一有名なお米の品種だと思います。
ここでは、新潟県でコシヒカリが栽培されるに至った経緯などを紹介します。なお、ここで紹介するコシヒカリは、現在主流のコシヒカリBLとは科学的にも種苗法上でも異なります。

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コシヒカリの誕生の歴史
事柄補足
1944年(S19年)新潟県農業試験場(現北陸農業総合試験場)高橋浩之氏(広島県)により国費事業として『農林1号』と『農林22号』の人工交配が行われた。
雑種第一代(F1)を収穫(9月下旬)
高橋浩之氏(広島県)がこの時に行った人工交配は、温湯除雄法と呼ばれる方法であった。
また、当時の新潟県農事試験場の所在地は、新潟県古志郡山通村大字長倉である。
1946年(S21年)高橋浩之氏(広島県)が、雑種第一代(F1)を試験田に播種し、雑種第二代(F2)を収穫する。
11月に高橋浩之氏(広島県)が関東東山農業試験場(現埼玉県鴻巣市)へ異動した為、この事業は仮谷桂氏と池隆肆氏に引き継がれた。
新潟県費事業として育種した種籾は、発芽せず失敗に終わる。
1947年(S22年)仮谷桂氏と池隆肆氏らが、雑種第二代(F2)を試験田に播種し、雑種第三代(F3)を収穫する。
この雑種第三代(F3)は、福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)に送られる。
4月に、後に東京大学の教授となった農林省研究企画官松尾孝嶺氏が『捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ。』と発言した。
1948年(S23年)福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)の岡田正憲氏によって、雑種第三代(F3)を播種され、雑種第四代(F4)が収穫される。
以降、福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)で、系統育種が行われた。
6月28日に発生した福井地震に拠り、建物が倒壊し、多くの試験田も栽培不能になったものの、雑種第三代(F3)を植えた水田だけが被害を免れた。
1952年(S27年)福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)で、有望な2系統の内《雑種第七代(F7)》を、『越南14号』と命名する。
この『越南14号』は、後に『農林91号』として農林登録され、『ホウネンワセ』の品種名が付けられた。
なお、この『ホウネンワセ』は、1962年(S37年)から1965年(S40年)の間、作付面積が日本一となった。
1953年(S28年)福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)で、有望な2系統の内《雑種第八代(F8)》を、『越南17号』と命名する。
この『越南17号』は、22府県に配布され、各地で適応性試験が行われた。
越南14号』は、20府県に配布され、各地で適応性試験が行われた。
8府県が有望と評価し、翌年(1954年(S29年))には更に12府県が有望と評価したが、新潟県は不適として適応性試験を打ち切った。
1955年(S30年)新潟県と千葉県が、『越南17号』を奨励品種とした。
1956年(S31年)福井農事改良実験所(現福井県農業試験場)が、『越南17号』を『農林100号』として農林登録し、『コシヒカリ』の品種名を付けた。しかし、新潟県内でも直ちには『コシヒカリ』の作付面積が増えない状況が続く。
特に、下越地方での『コシヒカリ』の作付面積が伸び悩んだ。
1962年(S37年)新潟県の塚田十一郎つかだといちろう知事が『日本一うまい米づくり運動』を展開した。
この運動により、『鳥跨ぎ米』の産地と揶揄された新潟県内では『コシヒカリ』などの食味の良い品種への切り替えが進んだ。
日本一うまい米づくり運動』は、別名『四越運動』とも呼ばれ、『越路早生』、『越栄』、『コシヒカリ』及び『越かおり』の頭文字が『越』の品種が奨励された。
作付率は『越路早生』が30.7%を占め、『コシヒカリ』は13%となった。
しかし、1966年(S41年)3月に塚田十一郎つかだといちろう知事の二十万円中元事件(贈賄)が発覚し辞任。
1963年(S38年)新潟県の『コシヒカリ』の作付面積が約2万haに拡大した。
1967年(S42年)新潟県の亘四郎知事が『米100万トン達成運動』を展開した。これにより、新潟県の『コシヒカリ』の作付面積が急激に減少した。
一時は、約1万3千haまで減少した。
また、新潟県は『ホウネンワセ』を奨励品種とした。
1969年(S44年)米の生産過剰状態となり、『自主流通米制度』がスタートした。
1970年(S45年)新潟県が『新潟米生産推進県民運動』を展開した。
これにより、新潟県の『コシヒカリ』の作付面積が約2万6千haに拡大した。
1974年(S49年)北陸4県共同プロジェクト『良質米生産の早植え・安定機械化制御技術の開発研究』がスタート。このプロジェクトのリーダーは國武正彦氏(福岡県)である。
1979年(S54年)全国のコシヒカリ作付面積割合が13.2%となり、日本晴にっぽんばれ(愛知県総合農業試験場)を抜いて、全国に占める作付面積割合が第一位となる。
1993年(H5年)冷夏による平成の米騒動が勃発。
平年よりも気温が2℃〜3℃も低く、作況指数が74となる。
細川護煕内閣が、260万tのコメの緊急輸入を発表した。
  ※本ページは、新潟県の公式HPへアクセスして記載しました。

  〜農林水産省AgriKnowledgeから抜粋〜
    ◇◇◇ 新潟県における育種状況 ◇◇◇
  1. 高橋浩之氏(広島県)による『農林1号』と『農林22号』の人工交配。(1944年(S19年))
    開発の動機は、イモチ病対策であったと言われている。
    また、交配親の各イネの評価は次のとおり。
     ・『農林1号』:上の下ランク。
     ・『農林22号』:中の上ランク。
  2. F2(雑種第二代):非常に多様な形質が現れる(メンデルの法則)。
    早生種で、稈長は長いが強稈。
         ↓↓
    仮谷桂氏と池隆肆氏が、3,000本の中から65本を選抜。
         ↓↓(※更に50本に絞り込んだとの説もある。)
    F3(雑種第三代)として残す。
  3. しかし、新潟県ではこのF2(雑種第二代)に対する評価が低かった。
    この時、新潟県としては次の2品種を有望視していた。
    『北陸56号(農林97号)農林22号』×『北陸26号』 有望視 ⇒ アズサ
    『北陸59号(農林109号)『農林8号』×『新2号』⇒ アキミノリ
  4. この為、F3(雑種第三代)を福井県農事試験場(現農業試験場)に譲渡することとなった。(1947年(S22年))
  5. 農林22号』と『新4号』の人工交配を行う。後に、系統名『越栄』となる。
  6. 越南17号』が適応性試験の為に、福井県農事試験場(現農業試験場)から配布。(1953年(S28年))
  7. 新潟県農業試験場の本場及び試験地8か所で栽培試験を実施。(1954年(S29年))

・高橋浩之
・石墨慶一郎
・杉谷文之
・國武正彦
・並河成資
・鉢蝋清香

・水稲農林1号
・水稲農林22号
日本晴にっぽんばれ
・ハツニシキ
・ホウネンワセ
・越栄

・温湯除雄法
・放射線育種法
・農事試験場

日本のコメ政策の歴史
事柄補足円相場
(為替相場)
1952年(S27年)日本国が、国際通貨基金(IMF:International Monetary Fund)と国際復興開発銀行(IBRD:International Bank for Reconstruction and Development)に加盟。
いずれも、国際連合の機関である。

360円
(固定相場)
1955年(S30年)食糧管理法(昭和17年2月21日・法律第40号)に基づく米供出制度の廃止。
日本国が、関税と貿易に関する一般協定(GATT:General Agreement on Tariffs and Trade)に加盟。360円
(固定相場)
1956年(S31年)農林省が、農業人口が過多である為、農業政策の転換が必要であると発表。
360円
(固定相場)
1961年(S36年)農業基本法(昭和36年6月12日位・法律第127号/廃止平成11年7月16日)が公布・施行された。
360円
(固定相場)
1969年(S44年)米の生産過剰状態となり、『自主流通米制度』がスタートした。
360円
(固定相場)
1970年(S45年)作付制限と転作による米の生産調整(減反政策)がスタートした。
360円
(固定相場)


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update:2023.07.31

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